カメラの距離感については、客観的でも主観的でもない距離感で接することを心がけました。撮影者としての意識は保持したうえで、個(わたし)と個(あなた)という相互的な存在として家族や帆花ちゃんに接することで、少しずつ関係性も形成されていく。それを映し出すことで、映画をご覧になる方々にも、帆花ちゃんの存在が実感を伴って立ち上がってくるのではないか、と考えていました。
――ご家族とともに過ごした時間ははっきりと映像に刻み込まれていると感じました。
あたたかく楽しい家族の日常のなかで、季節の移ろいとともに帆花ちゃんのベッドの周りの飾りつけや彩りが変わっていたり、理佐さんと秀勝さんがふとしたときに帆花ちゃんを見つめていたり……そういうなにげない瞬間や変化を見据えることで、「家族の時間」の積み重ねを映し出したいと思いました。それはご家族が、帆花ちゃんとの時間を積み重ねていくことをなによりだいじにされていると感じていたからです。
――撮影を終えるタイミングはどのように決められたのでしょうか?
撮影を続けていくなかで、理佐さんが僕に対して「いったいなにを撮ろうとしているんだろう?」と疑問をおぼえるようになり、僕も理佐さんの問いかけに十分に応えきれなかったところもあって、理佐さんの僕に対する信頼が揺らいでしまったんだと思います。結局、帆花ちゃんの小学校入学を機に撮影に区切りをつけることになりました。
――そこから、作品が完成するまでに7年近い年月がかかっていますね?
僕としては、はたして撮りきれたんだろうか、まだ描けていないものがあるんじゃないか、という気持ちが強く残っていたなかで、編集を始めることになりました。
思考錯誤しながら作業を進め、ある程度まとまった映像をご家族にお見せしたら、「私たちはこんなに暗くないよ」と言われてしまったんです。もともと家族の明るさや楽しげな姿に惹かれて撮り始めたはずだったのにそれを表現できていなかった。
打開策が見つからないまま時間だけが過ぎていき、帆花ちゃんも中学校に進学して、生活や気持ちの面でもさまざまな変化がご家族にはあったと思います。撮影した素材がどんどん過去のものになっていくことに焦りを感じ、一時はもう諦めようかとも思いました。
――でも、諦めなかった?
そうですね。僕自身が帆花ちゃんや家族と出会い、その生活や思いに触れることで、「いのち」とはなにか、その拠り所はどこにあるのか、ということを撮影や編集の時間をとおして考え、学びを得る貴重な経験をしていた実感があったので、諦めずに完成させることができたのだと思います。
――この映画を観ると帆花ちゃんだけでなく、私たちの「意思」というものについて考えさせられます。
僕自身、帆花ちゃんの「意思」を感じ取れているか、と問われれば、正直わからないことのほうが多い。おそらく映画をご覧になった方のなかにも、これは帆花ちゃんの「意思」ではなく、ご両親の「考え」なのでは、と疑問を抱く方もおられるかもしれません。ただ、僕らの日常的なコミュニケーションにおいても、相手の言動をどう読み取るかは個人によって微妙にちがうわけで、いわば僕らの「意思」というのも受け止める側の人間性や知識や体験によって変わるわけですよね。だから、帆花ちゃんが「こう感じているかもしれない」とこちらが考えながら接することは決して特殊なことではないと思うんです。
――むしろことば以外のものをいかにすくい上げるか、ということが重要になってきますね。
僕らも常日頃、相手のことばを100パーセント理解しているわけではない。そういう観点に立って考えると、帆花ちゃんとのコミュニケーションは実はとてもシンプルで、彼女をしっかり見つめる、向き合うことからすべてが始まるわけですよね。本当に意思疎通ができているのかわからないからこそ、わかりたいと思うわけで、それが人との向き合い方の基本なのだろうと思います。
理佐さんは「帆花の存在によって、自分のいのちが照らされている」ということをおっしゃいますが、相手の存在を感じることで自分の存在をたしかなものにする、ということが人が生きるということの根本なんじゃないかと思います。
――これから劇場公開が始まります。この映画がどのように受け止められていくことを望みますか?
この映画をご覧になった方には、無理に答えを出そうとするのではなく、まず問いを持って帰ってほしいと思います。僕自身、普段の生活やコミュニケーションのなかで、わかった気になって通り過ぎてしまっていることがたくさんあるんじゃないか、もっとわからないというところに踏みとどまって考える必要があるんじゃないか――帆花ちゃんとの時間を通じて、そんなことを思わされました。わからないことはわからないとしても、そのわからなさと向き合い続けることに意味があるし、そのための問いを投げかける映画にはなっていると思うので。
(聞き手・構成=佐野亨)